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2012年11月28日

道中の感想/Reflections on a Journey



道中の感想

今日、スイス旅行へ行く途中のロンドン市内を通過している中、
キングズクロス駅の外でちょっと日の光を浴びに外へ出てみました

青い空を飛んでいる新鮮な風と雲を楽しむために私はちょっと休憩
そして、私は近隣のセントパンクラス駅でもう一度驚嘆することになるのです。

それは文字通り素晴らしい建物で、そのファンタジーのタレット(建物)と、
とてつもなく大きな存在感で、まるで本当のゴシック調の城のようです。

そして、自分がこのファンタジーに映し出されると同時に、
かつて、その名前(セント・パンクラス)の起源を聞いてたことを私は思い出しました。
セント・パンクラスは、おそらく、古代の寺院への言及、
またはパン(自然の力を意味した古代の神)へ向ける神聖な樹園です。
パンは順序の中で混沌や荒々しさにリンクし、(それゆえ、現代の我々の言葉で言うなればそれは“パニック“となる)順序とは対照的なものになると言えます。
この建物には、確かに普通のものを越えた、何かの影響を受けたようである要素がありました。


St Pancras Station


ミーティング

しかしガトウィック空港空港行きの電車に間に合わせる為に、私には地下に下りる為の時間はもうありませんでした。

乗車後、私が利用できる最も最高な席は私の反対側にあったと言う事に気が付きました。
そしてその反対側の席にいる彼女の足元に大きな犬がいました。
その金色に光る毛並みやコートはうっとりするほど美しく、
その表情と態度は知的さを帯びていました。

私は完璧に犬に心を奪われており、
実はもう一つ、小さな動物がそこに居たことを知るのに少し時間が掛かりました。

それは変テコなウサギのような生きもので、女性の頭の後ろからと飛び出し、
彼女の肩にひょいとやって来ました。

それはチンチラでした。
そのピクピクしたひげは、あちらこちらを見ているように揺れています。
他の乗客も、このゆかいなを生き物を見つけて指を指し、微笑んでいます。
その女性は、このチンチラがボスであると話してくれました。
犬より非常に小さく、遥かに年を取っていました。

犬が到着した初日から丸2日間、チンチラはソファーの裏側に隠れていましたが、
それが何のためにもならないと分かると、そこから這い出て、
一直線に犬に向かって行ったそうです。

犬は直ぐに降伏し、尾を巻いて逃げて行きました。
きっとチンチラにその様な行動を取らせるインナー・プロセスがあったに違いないと私は思いました。


Ah sweet. A chinchilla.


その後

私は車内でローザに、Aura-Soma PPSコースを教える彼女の経験について尋ねてみました。
来月私はPPSをコロンビアにて教授するのでその事が頭にあったせいでした。

彼女は、コース内で彼女が最も評価するものが、
他者のギフトを発見することで、
それは学友達に新鮮でポジティブな思考を作せることでしょうと私に話してくれました。

そして私たちがしゃべり続けていると、やがて高速道路の自動支払機の前に止まり、
支払いを済ませているとロボットの声で、「ありがとう。さよなら」とメッセージ。

ローザは間髪無しに機械へ明るい声で答えました。
「あら、ありがとう、さようなら」

PPSコースについて、“他人へ親切にすること“と話していたら、
ただのロボットにさえ親切に反応できるのか…と印象に残った出来事でした!

コネクション

実際に、私はこれらの2つの物語が繋がるとは思っていませんでした。
がしかし、私がそれらを書きとめる今、気が付く点があります。

それはかつてジュワル・クールを洞察していた頃の自分を意識的に思い出させます。

それは全て存在しなければならない奇跡です。

意識が始まると同時に我々はその意識を世界中のものと共有します
それが犬またはチンチラ、そしてさらに機械であるかどうかにも関係ありません。
機会は自分自身を意識できるのか?
パンは、自然生命力の意識でしょうか?
私のどこに“私“がいるのでしょう?

10の力

10の力は、何年も前に製作された短編映画で、視聴者を9分の旅行に連れ出し、
それは湖によるピクニック・シーンから始まり、宇宙のまさしくその端まで10の真実とともに飛んで行きます。

10m100m1000m 10km100km1000km など... 

 それは、最終シーンに近付くほど速度を上げて行きます。
そしてその後、視聴者はピクニック・シーンまでフィルムを巻き戻されるのですが、
それは止まらず、一人の人の皮膚を通関し続け、10の要素により減って行き、
そして、炭素原子(振動核電子)の内部の世界へと移ります。
これを見た時、ある質問が私に強く打撃を与えたのを思い出します。

それが身体的な現実の最も深いレベルにある全てであるならば、
現実は至る所に存在していると言え、
形の複雑さはより高いレベルに現れるだけ)それなら“私”はそれの何処にあると言うのでしょう?

炭素原子は、「これは私です」と言うのでしょうか?

それは可能な感じではないですね。
そしてまた、そうでない場合、一体どの時点で“私“は表示されるのか? 
映画も”私”が存在するレベルまでズームする必要があります。
しかしそれはどんなレベルですか? 何が本当の意識なのでしょうか?
何が本当の“私” の基本ですか?


ユーチューブのフィルムを見ることができます。

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